時の遠にて 〜はなづくし〜 泰山木 花の香に、ふと彼は足を止めた。 「どうかなさいましたか、将臣殿」 先を行く尼僧姿の女性が振り返り、そう尋ねた。 「いえ。今、花の香りがしたような気がして」 照れ隠しのように、彼は笑みを浮かべる。彼の一挙手一投足が、彼女をはじめ、多くの人を不安にさせ、また、喜ばすことができるということを、彼は知っている。 「気付きませんでした。誰か、香でもたいているのでしょうか」 「かもしれませんね」 彼はそう言って、庭へと目をやる。 朝から降り続いている、音のない雨は、いっこうにやむ気配すらなかった。 あと少し、もう少しだった。 木の枝の先、大きな葉に隠れるかのように、その白い花はあった。 頼りない幹に掴まり伸ばされた少年の手は、ほんのわずか、その花には届かなかった。 「大丈夫、将臣くん」 すぐ傍らで、少女が不安そうにこちらを見ていた。少年は、笑みを見せると、 「大丈夫だから。だから、大人が来ないか、ちゃんと見張ってろよ」 「うん」 少女は迷いながらも、それでも頷いた。 市民グランドに併設された、児童公園。古く、おざなり程度の遊具しかなくても、そこは、彼らのいつもの遊び場だった。もちろん、木に登ったり、公園の植物を傷付けることは禁止されている。そのことは、二人ともよく知っていた。だからこそ、少女に見張りを頼んで、彼は木に登ったのだ。登るといっても、そう大きな木ではない。幹も枝も、少年の体重を支えるには心許なかった。彼は、腰の高さ程度にある幹が二股に分かれた部分に足をかけ、横に大きく広がった枝の先に手を伸ばす。それだけで、木はきしみ、傾いだ。 掴まっている枝も、細く、滑りやすかった。 「将臣くん」 祈るように、願うように、少女が呟くように彼の名を呼んだ。少年は、答えることはなくさらに手を伸ばす。 あと少し。もう少しなんだ。 指先は、花びらの先に触れていた。彼は思いきって、身を乗り出す。 その瞬間だった。 少年は大きくバランスを崩し、そのまま地面へと落した。思ったよりも大きな音に、少女は、驚き悲鳴にも似た声をあげた。 「将臣くんっ」 肩と腰と、膝が痛かった。地面に放り出したランドセルが、クッションになったのだろう。擦り傷はあるものの、ほとんど無傷といっていい状態だった。何より、少年の右手には、しっかりとあの大きな白い花が握られていた。 「やったぜ」 彼は誇らしげに、それを大きく掲げる。 「すごいっ、すごい将臣くんっ」 先刻まで泣き出しそうな表情をしていた少女は、輝くような笑顔ではしゃいでいた。彼はランドセルと肩にかけると、少女に向かって手を差し出した。 「行こうぜ、望美」 「うん」 少女は大きく頷いた。 雨の日に、公園で、お花のいい匂いがするの。 どんなお花が咲いているんだろう。 それは少女の他愛のない一言だった。 けれどそんな言葉ですら、大切にそして真正直に受け止めてしまう人間もいる。子供なら、なおさらだ。少年の一つ年下の弟は、彼女のために雨の中、公園で花を探し回ったのだろう。びしょ濡れになって帰ってきたのは、夕飯の時間を過ぎた頃だった。そのせいで、弟は、昨夜から熱を出し、寝込んでしまったのだ。 弟のお見舞いに行く、と言い出したのは少女だった。ことの顛末を両親から聞いたのだろう。夜遅くまで何をやっていたのか、しかも風邪をひくほど濡れるなんて。もしかしたら、イジメられているのかもしれない。何があったのか、ちゃんと聞き出さなくちゃ。弟はイジメられてもいないと、彼が何度言っても、信じようとはしなかった。その上、昨日何をしていたのかなにも言わない辺りが怪しいのだと、そう言い張ってきかないのだ。 お見舞いにあのいい匂いのする花を持っていこうと、そう言い出したのも彼女だった。 そうして二人で、公園の中を探し回って、あの花を見つけたのだ。 「ねぇ、ねぇ、譲くん、なんていうかな」 「きっとびっくりするぜ。オレが採ったって、聞いたら」 二人は手をつないだまま、真っ直ぐに、家へと向かって走っていった。 「ずるい、将臣くんっ。見つけたのは、私なんだからね」 「採ったのは、オレだぜ」 「譲くんのお見舞いに持って行くって言ったのも、私だもん」 口を尖らせて、彼女はそう訴える。 「私が採るって言ったのに、将臣くんが先に木に登っちゃっうし、ずるい」 「早い者勝ちだぜっ」 そうして、二人はさらに足を速めた。 空を覆っていた梅雨雲の合間から、太陽が顔を覗かせていた。 結局、風邪がうつるからと、譲には会わせてもらえなかったんだよな。 将臣は苦笑する。 持っていた花を見て、祖母がガラスの一輪挿しに生けてはくれたものの、それが公園の花だと知って、望美と二人、こっぴどく叱られたのだった。花一輪とて、生きているのだから、むやみに折ったり摘んだりしてはいけない。花は野に咲いてこそ、美しいのだと。 殺生だけは、あきません。 どこか関西なまりのある祖母は、ことあるごとにそう言っていた。 そして、将臣は、己が刀を手にする度に、その言葉を思い出すのだ。脳裏に、凛とした佇まいの、和服のよく似合う祖母が、厳しい表情で、けれどどこか悲しい瞳で、そう告げる姿を。心の中で、何度も詫びる。詫びて、どうにかなるわけでもないけれど、そうせずにはいられない。やめることもできない。自分は、もう決意してしまったから。 ここに来たのが、自分で良かった。 彼らは無事だろうか。大切な、幼なじみの彼女。そして、たった一人の弟。 あのとき、結局最後まで、譲は風邪をひいた理由を言わなかった。どんなに問いつめられてもなにも言わない彼に癇癪を起こし、望美はしばらく不機嫌だったのを覚えている。あのあと、譲が祖母とお菓子を作って、やっと機嫌が直ったのを覚えている。 将臣もまた、なにも言わなかった。譲の風邪の理由も、それを自分が知っていると言うことも。賢い弟のことだから、もしかしたら、気付いているのかもしれない。でもそれも、今となっては確かめようがないことだった。 あのとき、教えてやれば良かったのかもしれない。あいつは、花を贈られて喜ぶような人間じゃない。どうして一人で探しに行って、見つけて、採って来ちゃうのだと、怒りだすに違いなかった。 人に誰かしてもらうよりも、自分の大切な誰かのためになにかすることを選ぶ、そう言う人間だった。守ってもらうことよりも、共に戦うことを選ぶ。そして、そんな彼女を守ることを、弟は躊躇わないだろう。 「なぁ」 将臣は、前を行く尼僧姿の女性に声をかける。 「雨の日でも、花って、香るもんなんだな」 「将臣殿。それは、野の花でなく、屋敷奥深く咲く花でございましょうに」 尼僧はそう笑うと、将臣に先を促した。 「将臣殿。逃げても、よろしいのですよ」 彼女は将臣に背を向けたまま、そう告げた。驚いた彼が口を開きかけた瞬間、それを制するように、尼僧は言葉を続ける。 「貴方まで、戦に巻き込まれることはありません。お逃げなさい」 将臣は納得する。どうして、彼女ほどの身分の人間が、供も付けず、わざわざ将臣を訪ねてきたのか、やっと解った。彼女は、将臣を逃がすためにここに来たのだ。無関係の人間を巻き込むことを、心優しい彼女は是とはしなかったのだろう。 「ありがとうございます」 将臣は礼を述べる。尼僧は振り返り、安堵にも似た笑みを浮かべる。 「でも、俺は逃げません。困ったことに、俺には他に逃げる場所はないんですよ」 「将臣殿」 「良かったら、しばらく一緒にいさせてください。なにもできないかもしれませんけれど、雑用ぐらいなら、なんとか」 「将臣殿」 尼僧は再び背を向けると、袖の端で目元を拭う。 惟盛、義仲に敗れたり。 今朝早く、届いた知らせだった。 これから先、彼らがどういう運命をたどるのか、将臣は知っている。だから、一緒にいたかった。将臣にしかできないことが、必ずある。だから、ここで逃げ出すわけにはいかなかった。 何より、右も左も解らない将臣を、今まで保護し、養ってくれていたのは、彼らなのだから。 ばあさん、わりぃな。あんたの孫は、あんたの言いつけ、守れそうにない。 ここに来たのが俺で良かったんだよ。 今頃、弟も彼女も幸せに、高校生活を送っていることだろう。それで、いいのだ。 譲、あいつのこと頼んだぜ。 泰山木。 将臣はふと、あのときの白い花の名を思い出していた。懐かしい、思い出と共に。 〈終〉 writing by 神月 縁 |