[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。



 満開の桜並木。
 学校へと続くこの道を、あかねは気に入っていた。
 歩行者専用道路となっているため当然車の通りもなく、木を傷めぬようにと、アスファルト舗装もされていない。おかげで、ここの桜は、毎年見事な花を咲かせてくれる。広げられた枝は、空を覆い尽くさんばかりの勢いで、それはさながら桜の回廊のようだ。
 はらはらと桜の花びらが舞い落ちる最中を進んでいくと、異世界に迷い込んだような錯覚に陥るときがある。呑気者だとか鈍いとか言われているあかねでも、この通りを歩いているときは、なぜか感傷的になってしまう。あんな夢を見た後なら、尚更だった。
 あれは夢。
 己に言い聞かせるように、心の中で何度も繰り返す。冷静に考えれば、有り得ないことばかりだと解ってはいても、記憶にある全てがあまりにも生々しくて、混乱してしまうのだ。
 自分は、昨日、帰宅途中に倒れたのだ。母親が言うのだから、間違いない。間違いないはずなのに。
 「なにぼけっとしてるんだ」
 いきなり声をかけられて、あかねははっとする。目の前に、長身の同じ学校の制服を着た少年が立っていた。
「天真君、おはよう」
「おう」
 森村天真はそう応じて、あかねと学校へと向かって並んで歩き出した。
「えーと、昨日はありがとう。なんか、いろいろと迷惑かけちゃったみたいで」
「大したことじゃねぇし、気にすんな。どうしても礼がしたいっつうんなら、させてやらねぇこともねぇけどな」
「なにそれ」
 あかねは思わず吹き出した。
「オレはいいから、後で詩紋にちゃんと連絡してやれよ。あいつ、今日は委員会の当番とかで、一緒に行けねぇって、すげぇ心配してたから」
「うん。詩紋君にも詩紋君のお母さんにも、ちゃんとお礼を言っておく」
「にしても、なんだな。お前でも緊張すること、あるんだな」
「なによ、それ。それじゃ、私がまるで、鈍いみたいじゃない」
「違わねぇだろ」
 あかねは天真に向かって拳を振り上げる。彼は、はしゃいだように大声で笑った。
 良かった。いつもと同じだ。あかねは、安堵していた。心のどこかに、得体の知れない不安があったのだ。だが、いつもと何一つ変わらない天真の態度が、あかねを安心させた。間違いなく、今、あかねがいるこここそが、現実なのだ。
「にしても、昨日はマジひびったぜ。いきなり倒れるんだからな」
 天真の言葉に、あかねは適当に相槌を打つ。そのときのことを全く覚えていないのだから、返事のしようがなかった。だからといって、そのことを正直に話す気にはなれなかった。彼にからかわれるのが、目に見えているのだから。
「本当に、あの井戸のせいかと思ったぜ」
「井戸って、あの、魔界に通じる井戸のこと?」
「そうそう。オレは冗談だと思ってたからさ。そこで、だろ。マジ、洒落になんねぇぜ」
 魔界に通じる井戸。
 その噂を最初に聞いたのは、いつだっただろう。入学式を終えて新しい教室に入ったとき。それとも入学式で、中学の時から一緒だった友達と隠れて話をしていたとき。いや、それよりもずっと前だったのかもしれない。
 とにかく、その話を聞いたときから、あかねがいてもたってもいられなくなったことは、はっきりと覚えている。行かなくちゃいけない。どうしてもこの目で、その井戸を見てみたい。なぜなのか、そう思った。
 だから、天真と一つ下の後輩の流山詩紋を誘って、帰宅途中、わざわざ見に行ったのだ。けれど、そこにあったのは、なんの変哲もない、今は使われていないただの古井戸だった。
 そういえば、井戸へ続く道も、ここと同じで、見事な桜の並木道だった。
 桜並木を抜けると、緑の木々と、まるで記念碑かなにかのような尖った岩に囲まれて、その井戸が姿を現した。板と石で、蓋をされた石造りの井戸。
 まるで、舞台セットのようだ。
 あかねの第一印象は、それだった。井戸の周囲は、広場のようになっていて、その真ん中に井戸があるものだから、余計にそう感じたのかもしれない。あまりにも出来すぎていて、さもこれからなにかが起こりますよ、と声高に主張してるようにすら感じたのだ。
 そして。そして、どうしたんだっけ。
 あかねは、か細く頼りない記憶の糸を、懸命に手繰り寄せる。
「普通の井戸だねって話になって、それから、えーと、蓋が動いたんだっけ」
「ばーか。蓋が勝手に動くわけねぇだろ。そこでお前が倒れたんだよ。オレや詩紋が呼んでも、ぴくりともしやしねぇし。大変だって、とにかく、おばさんに連絡っつうんで、詩紋に電話をかけさせに行かせたんだけど」
 天真の声が尻窄みに小さくなり、ふいに途切れた。不審に思ったあかねが、傍らの天真へと視線を向けると、不機嫌そうに彼が親指の爪を噛んでいた。
「あのね、それなんだけど」
 慌てて、あかねは話題を変える。
「倒れたとき、詩紋君が携帯を借りた人って、誰かな。連絡先とか、名前とか、聞いてないかな。お母さんとも言ってたんだけど、きちんとお礼しなくちゃいけないから」
 ふと天真の足が止まった。つられて、あかねも立ち止まる。どうしたのかと尋ねようとして、彼女は口を噤んだ。彼の表情が、さっきよりも更に険悪なものになっていたのだ。こうなるともう、あかねは手も足も出ない。なぜ彼が怒っているのか解らないから、余計だ。
「あ、あの、天真君。本当に、ごめん。昨日、いろいろと迷惑かけちゃって、その、反省してるし。もうこんなようなこと、ないようにするから。だから、ごめんね」
 どうしていいか解らず、あかねはただひたすら謝っていた。昨日、さんざん振り回しておきながら、あまりにもお気楽な自分。天真が腹を立てるのも、無理のない話なのかもしれない。
 いきなり、天真は大声を上げて、頭をかきむしる。あまりのことにあかねはたじろぎ、後退ってしまった。
「すまねぇ。つまんねぇこと、思い出しちまっただけだ。気にすんな。お前のことで、むかついてる訳じゃねぇから、謝る必要はねぇよ」
「うん」
 あかねがそう返事をすると、天真は再び歩き出した。とはいえ、またあかねから昨日の話を持ち出すのは、かなりの勇気が必要だった。そのうえ、今日に限って、どういう訳か他の話題を思いつかない。どうすることもできず、気まずい雰囲気のまま、二人は学校へと着いてしまった。
 西門をくぐり、昇降口が見えたとき、また天真が歩みを止めた。
「どうしたの?」
 あかねが尋ねると、天真は面白くなさそうな顔で、顎を動かした。
「あいつだよ。詩紋に、携帯を貸してくれた奴」
 そうして彼が示した先には、長い髪を緩やかに一つに束ねた、長身の男性の姿があった。仕立てのいい、明るい青みがかったスーツを着て立つその背中を、どういう訳か、あかねは見たことがある気がしてならなかった。
 心臓が大きく脈打っている。
 たくさんの生徒が、その人物の横を一礼しつつ通り抜けていく。それはつまり、その人が、この高校の職員であるということなのだろう。けれど。
 お願い。
 あかねは、目を瞑る。耳の奥で、心臓の鼓動だけがこだましていた。
 お願い、振り向かないで。
 誰に、自分は祈っているのだろう。そして、なにを願っているのだろう。
 あれが誰なのか、あかねは知らない。知るはずがないのだ。なのに、願わずにいられない。振り向かないで欲しいと、その顔を見てしまったら、きっと悪いことが起こると、思わずにいられない。それは予感というより、確信に近かった。
 しかし、あかねの願いは聞き届けられなかった。
 その人は、ゆっくり振り向き、そして彼女へと向かって微笑んだ。
 あれは。
 あかねは、気が遠くなるのを感じていた。
 そうあれは、あの顔は。
 よろめき、天真の腕に縋るように掴まりながら、あかねは意識を手放すまいと懸命だった。
 あの顔は、間違いなく、夢で見た橘友雅の顔だった。



『夢想』第一章より 抜粋
writing by 神月 縁


<< BACK