泡 沫 〜寝待月の夜〜
姿を見つけて、彼は足を止めた。
「もうお帰りかい、鷹通」
「友雅殿。まだ、いらしたのですか」
一瞬驚いた表情を見せたものの、藤原鷹通は静かな笑みを浮かべ、そう尋ねた。彼は空を仰ぐと、
「あまりにも月が美しくてね。帰りそびれてしまったよ」
「ああ、そうですね」
つられて空を見上げた鷹通の口から、ため息のような感嘆の声があがる。
「今宵は、月がよく見えますね」
銀色の輝きを放ちながら、藍色の空に少しだけ欠けた月が、ぽかりと浮かんでいた。
その女
(ひと)は、花の香りをまとっていた。
「なにを考えてらっしゃるの」
細く白い指で、彼女はそっと彼の前髪に触れた。
身分の高い家柄の姫君だった。しかし彼女は気取ることもなく、まだ若いというのに母親のような、大らかで暖かい雰囲気をもっていた。
いつから彼女の元に通うようになったのか、そしていつ頃疎遠になったのか、彼は憶えていない。
「このところ、ずっとそうやってぼんやりしてらっしゃいますのね。どこかの美しい姫君のことでもお考えですの」
幼子の悪戯を咎めるかのように、彼女は微笑みを浮かべ、そう言った。
あの女
(ひと)は、よく笑う人でもあった。ただの一度も、泣いたり怒ったり、悋気を見せることなどなかった。
「そうだ、と言ったら、君はどうするのだろうね」
彼は、彼女の膝に頭を乗せ、その長い髪を指に絡ませる。
「私に貴方の心変わりが止められますの。お心がその方へと移ったら、貴方はそちらへお通いになるだけのこと。私のことなど、すぐにお忘れになってしまうんでしょう」
前髪から頬へと伸ばされた手を掴むと、彼はそっとその指先に口づけをする。
「つれないね。私のこの想いを知っているだろう」
「お戯れを」
鈴を転がしたような、明るく澄んだ声で彼女は笑った。
「まるで、生真面目な殿方のような仰りようですわね」
彼は目を瞑ると、自嘲めいた笑みを浮かべた。それからおもむろに起き上がり、床に無造作に広げられていた衣へと手を伸ばした。
「友雅様」
橘友雅は、衣を肩に掛けると、独り言のように呟いた。
「心ここにあらずは、君も同じだろうに」
御簾越しの空には、欠けた月が銀色の輝きを放っていた。
熱を持った風が、梢を揺らし通り過ぎていった。
「神子殿のご様子は、どうだった」
月に見とれていたのか、鷹通はきょとんとした表情で友雅を見つめた。そんな彼の姿が微笑ましくて、ついつい彼は笑みを浮かべてしまう。
「神子殿が心配で、こんな時間までこちらにいたのだろう」
やっと得心がいったのか、鷹通は眼鏡を直しながら
「ご自分のお力に戸惑っているご様子でしたが、今は落ち着かれてらっしゃいます。神子殿のいつでも前向きな姿勢には、感心させられます」
「なるほどね。堅物の治部少丞殿を夢中にさせるとは、さすが龍神の神子殿、といったところかな」
「友雅殿、私はそのような意味で申し上げたわけではありません」
友雅の言葉を慌てて鷹通は否定する。どこまでも生真面目で真正直な彼らしい反応だった。しかしどんなに鷹通自身が違うと言い張っても、彼が龍神の神子に惹かれていることは明らかだった。そのことを、ひた隠しにしようとしていることも。
愚かだと思いつつ、そんな彼をうらやましいと思う自分がいることに、友雅は苦笑を禁じ得なかった。
そういえば、と。
友雅はふと思い出していた。
あの笑顔を絶やさない彼女に通うようになったのは、あの女
(ひと)が堅物の治部少丞に文を送っていたと、伝え聞いたからだった。結局、彼女の想いは叶わず、寂しさ故なのか、友雅を受け入れたのだ。
それでも。かの女
(ひと)は、鷹通を忘れてはいなかった。だから友雅に対しても、執着することもなく、嫉妬することもなかったのだ。その方が、友雅にとっても都合が良かった。泣かれたり、縋られたり、ましてや嫉妬のあまり責め立てられたりしては、たまらなかった。
男女の戯れなど、泡沫の夢ならばこそ、美しいというのに。
なのに人間は、永遠のもの、決して壊れないものを求め続ける。人の心こそが、この世でもっとも移ろいやすいものだというのに。それでも、確かなものを手に入れたいと願うのだ。その手にした途端、心はほかに移ってしまっているかもしれないというのに。
それとも、龍神に選ばれし妙なる姫君ならば、違うというのだろうか。
「鷹通」
友雅は再び月を見上げた。
「君なら、あの月さえも手に入れてしまうのかもしれないな」
その一途な想い故に。
果たして、誰かのものになってしまった月は、以前と同じような輝きをその身に纏うことができるのだろうか。
友雅はただ待つだけだ。
桃源郷の月を。
それが誰かのものであろうとなかろうと、友雅は、ただ待つだけなのだ。
〈終〉
writing by 神月 縁
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