Oh ! ★ BROTHER !! 現代版 〜COMPACT〜
名の知れた会社ではないが、冬のボーナスが、ささやかながら出た。
とりあえず、部屋の敷金礼金を払っていた有川将臣に、その金額の半分を。そして、朔に、ほしがっていたコートを。そうして貯金に回すと、ほとんど手元には残っていなかった。それでも、やっぱり少しぐらいなら、自分のために使ってもいいよな。
ベッドに寝転がって、梶原景時は、給与明細を眺めていた。
こちらの世界にきて、間もなく一年。驚くことばかりだったが、会社勤めも始めて日々の生活を送るうちに、すっかり慣れてしまった。戦いのない毎日、住むところや食べるところの心配もいらず、勿論命を脅かされることもない。豊かで、安全な世界。
でも。
これだけ物が溢れかえっていると、逆に欲しい物なんて思いつかなかった。それに、こちらにある物は、景時が暮らしていた時代には、想像もつかない物ばかりだ。新しい全自動洗濯機も魅力だが、この時代は洗濯機は、乾かすことまでしてくれるので、それでは景時の楽しみが減ってしまう。
「そうだ」
景時は、立ち上がると、枕元にあった携帯へと手を伸ばした。
自分へのご褒美。ささやかだけど、一番欲しい物。彼は、メモリの中から目的の人物の番号を見つけると、ダイヤルボタンを押した。
ハンドルを切ると、冬の海が見えた。
今にも雨粒を落としそうな灰色の空を映して、海は暗く淀んでいた。
「うー、寒っ。なんでこんな日に、ピクニックなんだよ」
海岸側の駐車場に、一台のミニバンが止まる。運転席を空けて、降りてきたのは、有川将臣だった。
「本気で、こんな日に外で食事をするつもりですの、兄上」
後部座席から、大きな風呂敷包みを持って降りたのは、梶原朔。梶原景時の実の妹だ。
「あ、朔。オレが持つよ。本当に。久しぶりにみんなで出かけたのに、こんな天気なんて、残念ですね」
朔に続いて降りてきたのは、将臣の弟有川譲だった。彼は、朔から風呂敷包みを受け取ると、代わりに大きめの水筒を手渡した。海から吹く風も強く、朔は髪を押さえながら、空を見上げる。本当に、いつ降り出してもおかしくない空模様だった。
「うわっ、元気だなぁ、あいつら。こんな日に、サーフィンかよ」
将臣の言うとおり、海には、サーフィンを楽しむ人の姿が幾人も見える。陽も射さない、真冬のこんな日、風も吹いている。体感温度は、恐らく10℃を切っているだろう。
「もっとも、こんな日に意地でもピクニックをしようなんて、酔狂もいるけれどな」
そうして将臣が振り返ったのは、助手席から降りたばかりの、梶原景時だった。
「仕方ないよ。景時さん、仕事の都合で、今日しか都合がつかなかったんだから」
「へー、仕事の都合ね」
将臣が譲の言葉を繰り返しながら、景時へと冷たい視線を投げる。彼は笑いながら、
「譲くん、それ持つよ。どこで、ご飯、食べようか」
景時の脳裏には、三日前の将臣とのやりとりが蘇っていた。
本当は、二人だけで行く予定で計画していたピクニックだった。どこで勘付かれたのか、いきなり、将臣と朔が話に混じってきたのだ。断るつもりが、譲が
「みんなで、お弁当を囲むなんて、なんか楽しそうですね」
絶品の笑顔でそんなことを言うものだから、景時はただ頷くしかなかった。以来主導権は、景時の手から、将臣と朔の二人に移ってしまった。彼の意見が通ったのは、“海の見える場所でお弁当”ということだけだ。
「どうする、景時。海岸に降りてみるか。それとも、そこら辺で、弁当広げるか」
「ああ、うん」
「兄上、この風だと、砂が舞い上がってしまうわ。公園でも、探した方が良くないかしら」
「う、うん。そうだね」
こんな筈じゃなかったんだよね。
景時は、心の中でため息をつく。お天気のいい日に、冬の暖かな陽射しの下で、譲と二人きりでお弁当を広げて、ぼんやりと海を眺める。それが理想だったのに。
「すみません、景時さん。なんか、兄さんが勝手に」
「ううん、気にしないで、譲君。その、譲君が謝ることじゃないよ」
「でも」
いい子なんだよな。こういうとき、すぐに周りの様子を見て、気遣いを忘れない。きっと情けない表情をしていた景時を見つけて、声をかけてくれたのだ。
「せっかくみんなで、遊びに来たんだもん。楽しもう、ね」
「そうですね。鶏の唐揚げ、持ってきましたよ。景時さん、好きでしたよね」
「本当。嬉しいな。オレ、大好きなんだよね」
譲君もね。最後の一言を、景時は、そっと飲み込んだ。
ふと、どちらからともなく、ため息が洩れた。
続いて、朔と将臣はお互いに顔を見合わせて、苦笑した。二人の後ろには、今にも踊り出しそうなくらい上機嫌な景時と、周りのことには敏感なくせに、こと自分のこととなるととてつもなく鈍い有川譲が並んでついてきていた。
「男二人、海眺めながら、弁当食うっていう光景が、今日の天気よりもよっぽど寒いってことに、なんで気付かないかな」
「仕方ないわ。譲殿に関しては、兄上、どういうわけかきちんと物事を見えてないような気がするのよね。そもそも、今日だって、どうやって来るつもりだったのかしら。運転免許も持ってないのに」
ピクニックに行く、までは良かった。けれど、どこに行くのか、どうやって行くのか、が、見事なくらい抜けていたのだ。本当に、源氏の軍奉行として、多くの兵や御家人を動かしていた人間とはとうてい思えなかった。景時にしてみれば、朔や将臣が口を出してきた、というふうに見えたかもしれないが、朔も将臣も、あまりにも無謀な計画を見るに見かねて、というのが本当だった。
「まあ、恋は盲目、っていうしな」
「見えないにも、ほどがありますわ。結局、場所も車を借りるのも、運転も。将臣殿がいらっしゃらなかったら、どうするつもりだったのかしら」
「の割には、ずいぶん、嬉しそうだけどな」
将臣に言われて、朔は拗ねたように、視線を海の方へと向ける。
こちらに来て、一年。景時とこんなふうに、出かけることなどなかった。勿論、京にいた頃も。ここは、安全でとても豊かな世界だ。けれど、どうしてか毎日がひどく慌ただしく、ふと気を抜くと、取り残され置いて行かれてしまう。季節の移り変わりや、日々の時間の経過を、楽しみ味わいながら、ゆっくりと過ごすということがとても難しいのだ。
だから、朔にとっても、こんなふうに兄と過ごせる時間はとても貴重で、楽しいものには違いなかった。
「将臣殿は、どうなの。譲殿と、兄弟水入らずというのは、嬉しくはないの」
「男兄弟で、二人っきりが楽しいなんて、変だろ、それ」
「そうかしら」
「あと二十年ぐらい経って、お互いに、家庭とか仕事とか、そういう面倒な物を抱えた頃にでも、感じるんだろうよ。そういうの」
「そんな日が、来るのかしら」
ぽつり、と、朔が呟いた。このまま、自分たちがどこへ行き、どこへ辿り着くのか。京に戻るのか、それともこのままこの世界で一生を終えるのか。二十年後どころか、朔には、明日のことすら不透明だ。
「来るさ。京でだろうと、ここだろうと、間違いなく日が沈んで、次の日には昇るんだ。いつか、こんなこともあったって、しみじみ兄妹で話をするときが、必ず来るさ」
将臣の言葉に、朔はふと笑みを洩らした。不思議な人だ。将臣がそう言うと、なぜか本当にそんな日が来るのだと、信じることができる。信じて、生きていくことができる。
「少なくとも、バラ色の未来を信じているヤツが、後ろに一人いるけれどな」
「どうして、バラ色だって思えるのかしら」
朔は、深いため息をついた。
大きくカーブする海岸沿いの道。その先に、針葉樹の木々に囲まれた石造りの四阿を見つけて、将臣は足を止める。
「お、あそこで飯を食えるんじゃねえか。海も見えるし、ちょうどいいな。景時、あそこにしようぜ」
「あ、うん。そうだね。行こう、朔」
そうしてふいに差し出されたのは、景時の右手。以前は手袋をしていることの多かった、大きな掌。
いつだって寂しげにしか笑わなくて、調子のいいことばかり言って、本当のことは決して話そうとはしなかった。逃げてばかりいるのだろうか、それとも、ただ本当に調子いいだけだったのだろうか。けれど、どんなときも朔のことを考え、気遣ってくれていた。時折見せる暗い表情や、思い詰めた様子の、本当の意味を朔は知らない。
でも、こうして笑ってくれるなら。それはたぶん、とても幸せなことだから。
兄の描くバラ色の未来。そこにいる景時が、いつまでも笑っているような、そんなものであったらいいのに。譲に申し訳なく思いつつも、朔はそんなことを考えていた。
「ええ、行きましょう、兄上」
そうして朔は、差し出されたその手に、自分のそれを重ねた。
〈終〉
writing by 神月 縁
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