朝まだき
 


 その言葉を、軍奉行梶原景時は苦々しく思いつつも、彼らに告げた。
「朔殿を、ですか」
 確認するかのように呟いたのは、武蔵坊弁慶だった。
「彼女は、確か黒龍の神子でしたね。成程」
 何事か思案してから、彼は景時に尋ねる。
「で、彼女の到着は」
「明日にでも。寺の方に、使いを送ったからね。ここからは、そう遠くないし」
「俺は反対だっ」
 立ち上がり、そう大声を上げたのは、源九郎義経。この源氏の軍の大将だった。
「九郎、静かに。兵が動揺します」
 弁慶にたしなめられて、九郎は一瞬たじろいだもののすぐに
「戦場に女を入れるというのか。ましてや、妹御は刀など握ったこともないのだろう」
「朔殿は黒龍の神子。怨霊が相手である以上、彼女の力は必要です」
「だがっ」
「九郎」
 弁慶は、静かに彼の名を呼んだ。整ったその顔は、冷たく表情がなかった。九郎はなにか言いたげに弁慶と景時の顔を見たものの、
「頭を冷やしてくる」
 そう吐き捨てて、陣を出て行ってしまう。大仰に両肩をすくめて、景時は訴えるかのように弁慶を見る。
「九郎は、心配なのですよ。朔殿の身が」
「解ってるさ。でも」
 鎌倉殿の命は、絶対だ。
 出かかった言葉を、景時は飲み込んだ。口にしなくても、三人共、充分に解っていることだった。
 

「龍神の神子、か」
「なに、弁慶」
 弁慶は、はっとしたように顔を上げ、そしてすぐに笑顔で
「いえ。今ここに、白龍の神子がいれば、朔殿の力を借りなくていいのですけれど」
「白龍の神子か」
 景時は、口に出してから苦笑する。
「解らないよ。もしかしたら、龍神が気まぐれをおこしてさ、いきなり現れたりするかもしれないよ」
 景時の軽口に、弁慶は笑みを洩らす。そんなことはないと、一番よく解ってるのは景時自身だった。妹の前に、突然現れた黒龍。そして、現れたときと同じように、消えたのだ。 では、果たして白龍は。
 神子を呼ぶ力もないまま、黒龍と同様に消失したとしてもおかしくない。
「そうだとしても、果たして彼女が僕達に協力してくれるかどうか。どちらにしろ、九郎は気に入らないでしょうね」
「女の子だもんね」
 弁慶は軽く目を伏せ、そして立ち上がる。
「九郎の様子を見てきます。ここは、おまかせします」
「御意〜ってね」
 明るくそう返事して、景時は弁慶の背中に手を振った。
 白龍の神子、か。
 現れるなら、すぐにでも現れて欲しい。もうこれ以上、朔に悲しい思いはさせたくなかった。妹のために、なに一つできない自分。鎌倉殿に、妹を差し出せと言われたら、従わざるを得ない。けれど、できることなら、彼女を遠ざけておきたい。全ての苦しみ、悲しみから。
 どうか、白龍の神子を、ここに。
 ふと、景時の胸元が熱くなった、ような気がした。
 

 あり得ない。
 弁慶は、先程の景時との会話を思いだし、苦笑した。
 白龍の神子が現れるなどと、あり得ない。龍神は、滅したはずだ。龍脈を断ったのは、紛れもなく弁慶自身。力のない龍神が、神子など呼べるわけもない。景時の妹の前に黒龍が現れたと聞いたときは正直驚いたが、その黒龍もまた力を失い、形を保てず消えたのだ。未だ白龍の神子が現れたという話を聞かない以上、白龍は神子すらも呼べず消え失せたのだろう。
 しかし、、黒龍の神子の力は、怨霊を鎮めること。どれだけの働きを望めるか。
 攪乱、とまではいかないが、牽制程度にはつかえるかもしれない。
 嫌なものだな。思いつくのは、そんなことばかり。たとえそれが、景時の妹であっても。
 白龍の神子、か。
 あり得ないと思いつつも、考えてしまう。もし、今ここに白龍の神子が存在すれば、戦況は格段に有利になる。それだけではない。鎌倉殿に対しても、有効な切り札になるはずだ。いや、いっそ誰かを白龍の神子として祭り上げてしまうのもいいかもしれない。少なくとも、名前や顔を見知った誰かを利用するよりは、心は痛まないだろう。かつてこの地に現れた神子達は、天上より遣わされた者ばかりだと聞く。ならばなおのこと、好都合だ。
 夜半に降った雪が、なにもかもを白く覆い尽くしていた。雪化粧を施された京は、やはり美しい。この京を護るため、弁慶はどんな手段も躊躇わない。
 川辺に佇む九郎を見つけて、弁慶はかすかに眼を細める。
「九郎、あまり陣から離れては、危険ですよ」
「弁慶。ああ、すぐ戻る」
 そう応じて、九郎はすぐに踵を返し、弁慶の隣りに並ぶと、
「やはり、景時の妹の力を借りなければならないのか」
「平家がちょっかいを出してきてますからね。怨霊相手なら、龍神の神子は最も有効な戦力です。白龍の神子がいれば、朔殿の力を借りずにすむのですが」
「龍神の神子など、おとぎ話だろ」
 その口調は、苛立ちというよりは怒りに近い。なにに怒っているのか、彼自身も解っていないのだろう。大将でありながら、なに一つ自分の思うままにならないそれを、持て余しているのだ。所詮は鎌倉殿の掌の上、ということだ。
「黒龍の神子は、ちゃんと存在していますよ」
「しかしっ」
「僕達は、勝たねばなりません。たとえどんな手段を使ってでも、です。それが、鎌倉殿の意向ならなおのこと。違いますか」
「解っている」
 けれど、納得はしていないのだろう。更にその歩調を速めて、九郎は土手を駆け上がる。

 彼の真っ直ぐな心根が、弁慶には眩しかった。どんなに血で染まろうと、刀を振るって人を殺めようと、純粋な人間は、その心まで汚れることはないのだろう。
「九郎」
 弁慶は、河原から彼を見上げる。
「願ってみてください。白龍の神子が現れますように、とね」
 そんな弁慶の言葉を、彼は一笑に付すと、
「ふざけるな。そんなものの手を借りずとも、俺達は勝てる」
 あまりにも彼らしい物言いに、弁慶は口の端を上げる。
 どんなに戦場を駆け回っていても汚れることのない彼なら、天も動かせるかもしれない。そして、この地に白龍の神子が現れたら。
 弁慶は、その表情が見えぬよう外套の端を掴み整えると、九郎の後に続いて、土手を登る。
 救っていただきましょう。この京を。そして、源氏を。
 衣を掴んだその手の甲が、一瞬熱く痛んだ。
 

〈終〉  

 writing by 神月 縁


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