雨上がり
空を見上げて、森村天真は眼を細めた。
澄み切った青空に、容赦なく照りつける太陽。いつしか、季節は夏へと変化していた。
京に連れてこられたのは、まだ桜が咲き始めた頃だったというのに。
ここは、天真のいた世界とは違って、時間がゆっくり流れている。時計がないせいなのか、人々は太陽の傾きで時を知り、時間に追われることもなく、自然とともに一日を過ごしていた。元の世界で、天真は、時に取り残されていた人間だった。妹が失踪してから、周囲の時の流れから取り残され、ただその場に立ちつくしていた。そしてこちらでは、なにもかにもに追いつけずにいる。
「天真殿」
声をかけられて、彼は振り返る。心許なげな表情で、渡殿から彼を見下ろしていたのは、法親王永泉であった。
「永泉か」
「どうかなさったのですか。その、なにか心配事でもおありなのでしょうか」
天真はまじまじと永泉を見つめ、それから吐き捨てるように
「何でもねぇよ。お前こそ、なにか用かよ」
天真の言葉が、尻すぼみに小さくなる。永泉の手に、小さな花をつけた枝があるのが目に入ったのだ。彼は、花から、永泉から顔を逸らす。
「天真殿」
不安げに名を呼ぶ声が、気に障った。ささくれだった感情のまま言葉をぶつけようとして、はっとする。永泉の表情に、己と同じ影があった。どうしようもない無力感と、そんな己に対する歯痒さ。ただ違うのは、永泉には諦めの色があることだろうか。
天真は、なにも言うこともなくその場を離れた。
苦しんでいるのも、苛立っているのも、自分だけではない。それはよく解っている。けれど、己の中にあるそれを、彼はまだ収める術を知らなかった。
永泉は、遠離る天真の背中を見送りながら、言いかけた言葉を飲み込んだ。
何を言えば彼の慰めになるのか、そして自分の思いを伝えられるのか解らなかった。それも当然だろう。今の永泉は、天真は勿論、己の心すらつかめずにいるのだから。
そして、なにより、彼女の心が。
永泉は、己が手にしている花へと、視線を落とす。
ささやかなものではあるが、一時の慰めになればと、持参したものだった。
あれ以来、ふとした瞬間に、永泉の脳裏にあのときの彼女の声が蘇る。
いつか。
いつか、己は彼女に告げることができるだろうか。
神子だから、護りたいのではない。貴女が神子だから、この命を引き替えにしても護りたいのだと。
書物を棚に戻すと、治部少丞藤原鷹通は無意識のうちにため息をついた。その大きさに驚き、そして彼は苦笑した。
「悩み事かい、鷹通」
「友雅殿」
いつの間に忍び寄ったのか、すぐ傍らに左近衛府少将橘友雅が立っていた。
「最近姿を見せないと思ったら。仕事熱心なのはいいことだけれどね、それを逃げ道にしてしまうのは、どうかと思うがね」
「逃げ道になど」
鷹通は口ごもる。友雅はくつくつと笑うと、
「相変わらず、君は真面目すぎるよ」
「友雅殿。なにか御用ですか。そうでないのなら、仕事を続けたいのですが」
「やれやれ、冷たいねぇ。君が心配で、こうして会いに来たというのに」
鷹通は、棚に並べられた書物のいくつかを手にすると、感情のこもらない声でそう告げた。勿論、そんなことで友雅がめげるわけもなく、いつもの調子でさらりとかわされる。
鷹通は、それ以上は無駄、とでも言わんばかりに、友雅を無視し職務に戻る。しかし、戯れにあちこちの書物を取り出したり、無造作に戻したり、と気ままに振る舞う彼を意識しないでいられるわけがなかった。
「友雅殿、勝手に中を見ては困ります。それに、それはそちらではなく、あちらの棚のものです」
「後悔、してるのかい」
まるで独り言のように、彼はふとそう告げた。鷹通は言葉を失い、友雅の整った横顔を見つめる。灯台の薄明かりに照らされた彼の顔は、宮中の数多の姫君が噂するように美しく魅惑的だが、どこか冷たかった。鷹通は、逃げるかのように、視線を床へと落とす。
「なにもかも、自分のせいにするのはやめたまえ。それはね、鷹通」
友雅は、鷹通の顔を正面から見据えると、はっきりとした口調で断言した。
「傲り、というものだよ」
「そんなっ。私はっ」
鷹通の訴えを、友雅は手にした扇で制すると、
「どうにもならなかった。君にも、私にも。他の誰にも、どうしようもなかったんだよ。勿論、神子自身にもね」
「しかし、あの時、私がもっと早く事実に辿り着いていれば。神子殿から、あの面を見せられたときに、私が預かっていれば」
「同じだよ、鷹通。なにも変わらなかった」
言葉は優しいが、その口調は静かで、厳しかった。友雅は、扇を開き、そして音を立てて閉じる。
「どちらにしろ、終わってしまったことを悔やんでいても、仕方があるまい。結果の出てしまったことは、どんなにあがいても、変えることなどできないのだからね」
鷹通はなにも言わず、ただじっと彼の顔を見つめていた。そんなことなど、解っているとでも言いたげに。
友雅に言われるまでもなく、己自信のことは己が一番よく解っていた。
また、何もできなかった自分。真実に辿り着いていたというのに、彼は、どうすることもできなかった。もしかしたら、他になにか方法があったかもしれないのに。それを見つける努力もせず、ただ、彼女を苦しめただけだったのではないのだろうか。辛い選択を、させてしまったのではないのだろうか。
「私たちは、もっと彼女のことを気遣ってあげるべきだったのではないのでしょうか。彼女のことを考えれば、他に方法がきっと……」
鷹通の言葉を遮ったのは、友雅の含み笑いだった。彼の顔が朱に染まるのを見て、友雅は慌てて
「君が神子殿をどれほど大切に思っているか、よく解ったよ」
「友雅殿っ」
「けれどね、鷹通。忘れてはいけないよ。君が自分を責めているように、己の無力さに苦しんでいる者が他にもいるということをね」
そう言われて、鷹通ははっとする。友雅は、鷹通のそんな表情を見て満足したのか、笑みを湛えたまま
「では、私はこれで失礼するよ、鷹通」
そう言い残して、さっさとその場から立ち去ろうとする。鷹通は、追うことも声をかけることもできぬまま、その場に立ちつくしていた。
「ああ、そうそう、鷹通」
ふと思い出したかのように、彼は足を止める。そして
「神子殿を気遣うことは、今からでも遅くはないと思うけれどね」
鷹通は目を伏せ、肺にたまっていた息を全て吐き出すと、軽く頭を振った。
明日は、土御門を、神子殿をお訪ねしよう。無力な自分にも、なにかできることがあるはずだ。八葉として、だけでなく、藤原鷹通として。
月が、その美しい面を雲に隠してしまった。
取り返しのつかないこと、どうにもならないこと。人生はそんなことばかりだ。人の力でできることなど、ほんのわずかに過ぎない。たとえ、それが龍神より力を与えられた神子を護る八葉であっても、だ。
なのに、この世界の悲しみも苦しみも、全て引き受けて思い悩む者がいる。なにもかもを救えると、信じて疑わぬ者がいる。
彼らと友雅の違いといえば、友雅は知っているということであろうか。努力すれば、必ず報われるというわけではない。思いが強ければ、願いが叶うとは限らないということを。
諦めると、いうことを知らぬ人間ほど厄介なものはない。けれどそんな彼らを、うらやましいと思う自分がいることも、確かだった。
恋でも舞でも、楽でもいい。己の命を賭してまで、極めようとするもの。それがあったのなら、友雅の人生も変わっていたのだろうか。
詮無いことを。
友雅は苦笑して空を見上げる。
どうやら今宵は、月にも嫌われてしまったようだった。雲に隠れたきり、月は、その姿を現そうとはしてくれなかった。一献、お付き合い頂こうと思った相手は、まだ、己の心に囚われたままだ。
今回のことは、神子は勿論、八葉にも少なからず心の変化をもたらした。それをどう受け止めるかは、本人次第。誰も、助けることも手を貸すこともできない。人は、結局自分自身で己の行く道を決めるしかないのだから。
そう、友雅にとっては。
幻の舞を、この目で見られたのだ。得をした、と思ってもいいだろう。
さて、明日は土御門を訪れようか。神子殿に、昔話をして差し上げよう。かつて、友雅を“琵琶殿”と呼んだ、彼のことを。
イノリは大きく伸びをすると、高欄越しに、簀の子で片膝を抱く詩紋を振り返る。
「で、どうなんだ。その、様子は」
詩紋は伏し目がちに、その問いに答える。
「元気だよ。元気だけど、でも、やっぱり」
尻すぼみに小さくなる声に、イノリは肩を落としため息をつく。
「あーあ、なんでこう面倒くせぇんだよ。いいじゃん、怨霊の封印もできたし、舞初めとかも問題なかったんだろ」
「うん」
詩紋はただ、頷いた。その怨霊が問題だったのだ、とは言えずに。
「あれ以来、なんかみんな変だぜ。そりゃ、元気だし、普段と変わらないけどさ。けど、やっぱりなんか変なんだ」
イノリは一つ間をおくと、視界の隅で詩紋を捉えながら、
「お前だって、元気ないし」
「そういうわけじゃ、ないんだ」
詩紋は、小声で否定した。今回のことで、一番傷付いているはずのあかねが、いつもと変わらず元気な顔で笑うから、そして、そんな彼女を眩しそうに寂しそうに、天真が見つめているから、詩紋は切なくて仕方がないだけなのだ。大切な人たちが、辛い思いをしているのは嫌だから、なんとかしてあげたいのに何もできなくて。
「天真も最近元気ないし。頼久だって、なんか更に声かけづらくなってるし、泰明は相変わらずだけどな」
「みんな、いろいろ考えてるんだよ。あかねちゃんのこと」
「オレだって、考えてるさ。でも、考えたって、仕方ないだろ。オレ達にできることは、あかねを護ることと、鬼をぶっ倒すことなんだからさ」
詩紋は膝に額をつける。争いたくはない。自分の力も、大切な誰かを護るためにあるのであって、誰かを傷付けるため、なにかを壊すためにあるのではない、と信じたい。
「だいたい、みんな、なんで悩んだり落ち込んだりしてるんだ」
「それは、その、あかねちゃんがあの人のことを好きで、それで、その人が怨霊だったから」
「そこが解んねぇんだよな。なんで、あかねは怨霊なんかを好きになったんだ」
「知らなかったから、じゃないかな」
詩紋は、しどろもどろになりながらも、そう答える。
「でも、そいつ悪いヤツだろ。あかねを利用して、自分の恨みを晴らそうとしたんだからさ」
イノリの言葉に、詩紋は曖昧に返事をする。本当にそうだっただろうか。怨霊は、確かにあかねを利用しようとしたけれど、最初からそのつもりだったのかどうか、詩紋には解らなかった。それに、詩紋にはどうしても、彼が悪い人間とは思えないのだ。怨霊となり、たくさんの人を苦しめたのかもしれないが、あの人自身も悲しみ、苦しんでいた気がするのだ。
「あの人だって、怨霊になりたくなかったのかもしれない。だから、あかねちゃんに、封印して欲しいって」
「だったら、余計おかしいだろ。オレもお前も、天真だって、頼久だって、泰明だって。友雅や鷹通や永泉も、みんないいと思ったことをしたんだ。あかねも、その怨霊だって、相手のために一番いいと思うことをしたのに、なんで落ち込むんだ。誰かのために一生懸命になってやったことなのに、それをどうして悪いことだ、なんて思えるんだ」
「そうだね」
詩紋は、あの一夜へと思いを馳せる。舞や楽のことなど全く知らない詩紋でも、彼があの夜に舞ったそれが、素晴らしいものだということは解っていた。
「あの人、笑ってた」
笑顔で、幸せそうな顔をしていた。怨霊のまま消えたわけではなく、浄化されたのだ。苦しみを抱えたまま、調伏されたのではない。それは紛れもなく、あかねの力のなせる業だった。
「あかねちゃんは、笑ってる」
「空元気も元気のうち、だろ」
「うん、そうだね」
一番辛いのは、たぶんあかねなのだ。その彼女が、明るく元気に振る舞っているのに、自分達が落ち込んでるなんて、いけない。詩紋は、龍神の神子を護る八葉、なのだから。
「ボク、これからなにかお菓子でも作るよ。今日、友雅さんや鷹通さんが来るって、藤姫が教えてくれたんだ」
「本当か、詩紋。お前の作るお菓子、結構上手いからな」
「うん、楽しみにしてて」
詩紋は立ち上がると、嬉しそうに微笑んだ。
天真は、あかねに龍神の神子をやめさせる気だった。そのあと、ここを出て、詩紋と三人で暮らすつもりでもいた。
イノリは、屋敷の奥へと向かう詩紋を見送りながら、ふと、そんなことを思い出していた。
あかねが龍神の神子でなくなるなんてこと、イノリは考えたこともなかった。
ただ、あかね自身、自分が龍神の神子であることを負担に感じていることは、なんとなくだが気付いていた。けれど、イノリにはそれが不思議でならなかった。力があって、それが使えるのなら、誇らしいとは思わないのだろうか。それが強大な力であるなら、なおのこと。
けれど、あかねは戦わずにすむ方法、誰もが幸せになる方法を、見つけようとしている。
それも、イノリには理解できなかった。力があるのに、鬼と戦わないなんて。人々を苦しめた鬼の幸せを考えるなんて。
イノリに解るのは、あかねが龍神の神子であるということ。自分が神子を護る八葉であるということ。そして、あかねが神子だから護りたいのではなくて、神子があかねだから護りたいと思うのだということ。似ているけれど、その二つは違うのだということ。きっと、他の八葉も同じに違いない。
いつか、あかねに教えてやろう。そのことを。
青空に、太陽が輝いていた。今日が鬼の手によって、危機にさらされているということすら忘れるくらい、澄みきっていた。
今日もいい天気だ。
イノリは、手をかざしながら、そんな空を見上げていた。